熟すと腐るは紙一重

プログラミングに纏わる話や身の回りの話

3年の月日を振り返って

育児の記録

久しぶりの記事になってしまいました。
今回はプログラミングではない話題について書きたいと思います。
私事ですが、先日次女が3歳の誕生日を迎える事ができました。この記念に、今の気持ちや状況を記録に残しておきたいなぁと思ったので、このブログに書いていきます😌 誕生日を迎えると言うと、ごく自然な事のように聞こえるかもしれませんが、私たち家族にとっては大変感慨深いものです。
次女が誕生した時のことについては、フィヨルドブートキャンプのアドベントカレンダーに参加した際に少し書いているので、よかったらお読み下さい。

tsuyochannel.hateblo.jp

産まれる前の生活

3年前、次女は出生体重400g台と言う、極めて小さな体で産まれてきました。医学の世界では、字の通り「極低出生体重児」と呼ばれたりします。
妻は次女を妊娠中、8週目からずっと入院しており、絶対安静の状態でした。上には当時2歳だった長女もおり、24時間勤務の私は毎日家に帰ってこれないため、妻の実家へ長女を預けて生活していました。
朝勤務が終わると、自宅へ帰り着替え・洗濯などを済ませ、妻の実家へと急ぎます。しばし長女と遊んだ後は妻が入院している病院へ2人で行き、夕方病院の洗濯物と共に実家へ戻り、長女の風呂・ご飯を済ませ、歯磨き・寝かしつけまでやります。時には長女が寝てからそぉ〜っと起こさないように爪を切ったりしなければならないので、自宅へ帰るのは深夜2時過ぎの時も少なくありませんでした。
そしてまた翌朝仕事へ出かけるという日々だったのですが、この時から、子供がいつ産まれても対応できるように、お酒を1滴も飲んでいませんでした。いつ何時呼び出されてもいいように、リュックの中には必要書類や印鑑、通帳、モバイルバッテリー、携行食、お茶などを常に入れて持ち歩くようにしていました。

非情な知らせ

時が流れて、ある日のこと。勤務中、深夜に妻から「破水したかもしれない」と連絡が入りました。その時まだお腹の赤ちゃんは22週と0日です。
朝勤務を終えた後、病院へと急ぐと、羊水がほぼ0になっているので、至急大きな病院へ転院しなければならないと言われ、NICU(新生児集中治療室)のある病院へ救急搬送されました。
両親へ連絡したりしながら家族控え室で待っていると、主治医の先生が来られ「今すぐ産まれるような状況ではないですが、非常にシビアな状況です。1日でも長くお腹の中に留めておけるよう最善を尽くしていきます。」と言う趣旨のお話がありました。それから妻はMFICU(母体胎児集中治療室)に移され、厳重な管理の元入院となり、医師からこんな話をされました。

「医師として説明しなけらばならないので、1つの選択肢を提案します。胎児は今22週と0日ですが、週数の割りに体重が小さいです。この週数には誤差があるため、今なら週数を1日修正し、21週と6日とすることもできます。治療を早急に開始しないといけない為、猶予は後2時間です。ご夫婦で話し合って、2時間以内に決めて下さい。」

なぜ、医師がこんな話をしたかと言うと、日本では母体保護法によって人工妊娠中絶が可能な期間が決められており、22週目以降は中絶手術は認められていません。週数を修正し、21週と6日とすることにより、人工妊娠中絶も選択できるよう提案されたのです。
医師のくせに、中絶を奨めるなんて!と思った方もいるかもしれませんが、これには深い訳があります。もし22週0日で産まれた場合、生存できる確率は50%程です。そして、生存できたとしても大きなリスク(障害)を負って生きていく事は避けられないと言う事実からです。子が障害を負うと言うことは、両親へも大きな負担がのしかかります。それが一生続くかもしれないと思うと、中絶を選ぶ方々も中にはいるでしょう。どちらが正しい選択かは正解は無いと思います。だから医師は私たちにリスクの説明を行い、判断を委ねたのです。

もしこれを読んでいる人が同じ立場だったらどうしますか?

私たち夫婦に与えられた時間は2時間です。2時間でお腹の子の運命を決めなければなりませんでした。
静かな病室のベッドの上で、妻は悩み、涙を流していました。
当時、妻はNICUで働く看護師であり、誰よりも低出生体重児のリスクを理解していたからです。これまでも、幾度となく苦しむ家族の姿を一番近くで見てきました。壮絶な治療の末に天国へと旅立っていく赤ちゃんを何度も見て心を痛めてきた一人です。そんな現実を知っていて、悩まないわけがありませんでした。
しかし、私には迷いはありませんでした。妊娠8週から大きな血腫があるにも関わらず、お腹の中にしがみつき、ここまで耐えてきた命です。"生まれたい"という強い意思を感じずにはいられなかったですし、私たちの手でその鼓動を止める事は到底出来ないと思いました。どんな子が生まれようと、受け入れる。話し合いの末、私たちは妊娠を継続する意思を固めました。
この時、私は心の中でこう考えていました。

これは神様からの挑戦状だ。絶対負けねぇぞ。ナメんなよ。

MFICUでは子供は面会できないため、勤務日以外は一人で毎日面会へ行きました。新生児の世界では1日でも長く、100gでも大きく成長することが、赤ちゃんの予後に大きく関わります。毎日祈るような思いでした。

その日が来た

羊水が微量に増えては流れるを繰り返しながら、緊張の日々を過ごしていました。いつものように、もうすぐ勤務が終わろうとしていた時、私の携帯に電話が入ります。妻からでした。電話口の妻から「今から産むことになった!赤ちゃんの心拍が弱くなってる!」と告げられ、電話の向こう側がざわついているのが分かりました。私は上司にその事を伝え、大急ぎで病院へ向かいました。
病院へ着くと家族控え室へ案内され、間もなくして執刀医から、赤ちゃんはすぐさま蘇生された後NICUへ移されたと説明を受けました。羊水が無いまま約2週間耐え抜き、24週と2日目に緊急帝王切開で出産となったのです。
妻は産後の縫合処置などがあり、まだ初日は動けないため、最初に赤ちゃんに面会したのは私でした。保育器の中で両手の手のひらに収まるくらいの小さな命は必死に生きていました。まだ自発呼吸が出来ないため、気管挿管され呼吸器に繋がれ、体には点滴やたくさんの管が入れられ、厳重な衛生・体温管理を受けていました。肌はまだ透けていて、耳や体の器官も完全に出来上がっていません。蘇生した医師から、現在のところは順調に進んでいることと、生まれて数日間が1つめの大きな山場だと説明を受けました。
その後は入院手続きの説明、手術や処置に関する説明と同意書のサインがこれでもかというくらいあり、ご飯も食べる暇もなく、その日家に帰ったのは21時くらいだったと思います。
こうして私たち夫婦は、極低出生体重児の親となったのです。子がこれからどんなリスクを追っていくかは未知でした。

面会の日々

妻は産後の傷の痛みはあるものの、経過は順調に1週間で退院しました。入院中も、出産の次の日から車椅子に乗ってNICUまで行っていて、母親は強いなと思いました😅
退院後は自宅から毎日二人で面会に行きます。嵐のような悪天候の日でも面会は欠かしませんでした。妻は少しでも栄養のある母乳を届けるため夜中も寝ずに搾乳を頑張り、本当にわずかしか寝ていなかったと思います。長女を実家へ預け、昼前に面会に行って19時〜21時頃帰る日々の繰り返しです。日によっては赤ちゃんの体調がおもわしくない時もあり、そんな時は心配で怖くて帰ることが出来ず、23時頃帰る日も少なくありませんでした。2歳の長女はその間も泣かずに実家で過ごしていてくれ、本当に助かりました😭
この毎日擦り切れるような日々を送り、本当にテレビも携帯も見る暇もないくらい時間に余裕がありませんでした。体力も精神力もとっくに限界を超えています。けど、一番はやっぱり妻が辛かったんじゃないかと思います。健康に産んであげられなかった自分を責めていましたし、不安しかなかったと思います。私も必死で支えましたし、長女を含め家族を崩壊させてはならない、なんとかこの形を維持するんだ!という思いでした。
食事も院内のコンビニで買って食べるくらいしか出来なかったので、Tポイントは沢山溜まりました。笑

転院

治療を続けていく中で、今いる病院では受けられない手術があり、別の道を選択するかどうかと考える時期がありました。妻は毎日寝ずに、必死でネットで情報を探し、日本で唯一その手術が受けられるこども病院を見つけました。しかしその病院は私たちが住む地方から1,300km以上離れていたのです。その上入院中の我が子はまだ気管挿管されており、移動に飛行機が使えません。新幹線で行けば7時間以上かかり、その間子の体力が持つかどうかも賭けでした。この転院を現実にするためにはクリアしなければならない問題が多かったのです。
それでも一縷の望みに賭けて、できる事は全てやろうと夫婦で話し合い、医師や看護師、転院先の病院と共に壮大な転院計画が進められることになりました。転院前には院内でシュミレーションやカンファレンスを幾度となく行い、安全な移動かつ緊急事態に備えます。
1度目は転院の前日に子が体調を崩し、当初の予定より1ヶ月半ずれたものの、生まれてから8ヶ月目に転院することとなりました。医師3名が付き添う厳戒体制で約7時間かけて県外の病院へ到着し、私たち夫婦は数名の医師から何時間もIC(informed consent=説明と同意)を受けました。
医師から「事前に頂いていた情報よりも、全身状態がかなり悪い。」と聞かされ、長時間の移動がかなり命懸けだったことを改めて思い知りました。しかし驚くのは転院先の医療チームがその後の1週間で劇的に回復させたことです。この病院に来てよかったと胸を撫で下ろしました。
転院前の見立てでは、1ヶ月くらいの入院で帰れるだろうと踏んでいたのですが、精査していくうちに様々な問題が見つかり、いつ帰れるか全く見通しがつかなくなりました。最初の2週間は手術や検査の連続なので長女を実家へ預けて来たのですが、長期戦ともなるとさすがに母子分離が長いのは問題があると考え、一旦私だけ戻り、妻は残って家(マンスリー)を探し、私は保育園の休園手続きなどをして長女を連れて県外の転院先へとトンボ帰りしました。こうしてプチ移住生活がいきなり始まり、2歳の娘を連れて毎日病院へ面会へ行く日々が続きました。とにかく毎日病院と家の往復です。県外生活中、公園へ連れて行ってあげられたのは1回だけでした😓
クリスマスも年越しも正月も見知らぬ土地で過ごし、毎日が濃い上にマッハで過ぎて行きました。病院から帰るのも夜遅く、幼い娘に23時頃コンビニ弁当を食べさせざるをえなかった時はすごく心苦しかったのを今も覚えています。それでも娘はわがままひとつ言わず毎日笑って病院へついて来てくれ、風邪ひとつ引きませんでした。私たち夫婦も長女に寂しい思いをさせないよう、必死で愛情を注ぎました。

1歳。そして自宅へ

県外での生活を頑張り、転院からちょうど100日目に地元へ戻ってくることが出来ました。
戻ってもすぐには自宅には帰れないため、入院生活は続きます。今度は小児科に入院なので付き添い入院が必要で、妻と交代で病室へ泊まりました。私は仕事の長期休みから復帰しており、勤務日以外は病室に泊まったので家でほとんど寝ていませんでした😅
そうこうしているうちに、1歳の誕生日を病院で迎えました。本当は家でお祝いしたかったのですが、1年以上入院し、誕生日の3週間後にようやく退院して家に連れて帰ることができました。家族揃ったあの時の気持ちはなんとも言えない幸福感に満ちていました。みんな本当によく頑張ったと思います。長女も妹と初めて会えてとっても嬉しそうでした。ひとときも離れずべったりくっついている姿を見ると、なんだか感動して泣けてきました。

家での生活

1年の入院生活を経て自宅へと戻って来たわけですが、本当に大変なのはここからでした。
次女には医療ケアが残り、今まで病院で看護師さんが手伝ってくれていたケアを在宅で全てしなければなりません。これが本当にきつかったですね…😅
これまで以上に精神と体がすり減り、夫婦喧嘩は増えるし、寝れない、食べる暇ない。テレビすらの娯楽までも皆無。毎日吐き戻す次女の対応に体力を持って行かれ、どうしたら良いのか分からず試行錯誤の日々です。次女だけでなく長女のお世話もしなければなりませんし、1日のうちに休憩が10秒あれば良い方でしたね…
こんな生活が約1年半くらい続きました。
次女を連れて初めて家族全員で外出できたのは、次女が1歳半頃に2時間くらいだけでした。公園に行っただけでしたが、こんな幸せなことはありませんでした。普通に生まれていればすぐに公園になんて行けるでしょうし、旅行にだって行きますよね?その当たり前の日常すらも送ることのできなかった私たちにとって、わずか2時間の公園も奇跡に感じました。
普段気づいていないだけで、当たり前なんてものはないのです。

3歳になる

そんな次女が今年3歳を迎えることが出来ました。あまりの激動の日々に、まだ3年しか経っていないのか…(この先体力持つのか。笑)と言う思いと、もう3年も経ったのかという思いが入り混じっています。生まれた当時は何度も生死の境をさまよい、生きているだけでも奇跡なくらいでした。その400g台のちいさな体で生まれた命は今日もこうして生きています。そしてあの頃は想像も出来なかった3歳の誕生日を元気に迎えることができ、この上ない幸せを噛み締めています。もし次女が普通に産まれていれば、何気ない1日に感謝することはなかったかもしれません。家族で公園へ行ったり、ご飯を食べたりするような小さな幸せを感じることはなかったかもしれません。
まだ医療ケアは残っているし、成長発達も遅れているのでリハビリや通院を何年も続けなければならず、正直一般家庭のような普通の生活は送れていません。睡眠時間だって4~5時間です。それでも我が家なりの家族の形を見つけつつ、小さな幸せを感じる余裕は出て来ました。(ただ慣れたのかもしれませんが…。)
こんな大変な状況の中でも、私はプログラミングの勉強を始め、今半年くらいは継続できています。少しでも環境を良くしたいし、たくさん勉強して給料を今より上げて子供や妻に余裕のある生活を送らせてあげたいと思っています。特に妻には無理をさせてしまっているので、これからの人生はもっと楽しみながら豊かに送れるように、今自分に投資するしかないと思って頑張っています。幸い良い人たちに出会い、楽しく学習できているのでこの出会いを大切に、生涯仕事を通して付き合っていけたらいいなと思っています。

最後に

この記事を書き始めた時は、3年を簡単に振り返って記録に残しておこう。くらいの軽い気持ちだったのですが、3年の間に色々な事があり過ぎて長くなってしましました😅
もしここまで読んで下さった方がいましたらありがとうございます。
今後も仕事・育児・勉強とどれも全力で頑張って行きたいと思います😊!